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 0430刀剣乱舞―山姥切国広


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【model: toma.】

その鏡に個性があってはならない。
その鏡に唯一があってはならない。
その号を写すには、あまりにも秀麗な傑作だった。

▼追記に考察あり(※集めた情報を個人的な見解で考察しています)


本家:長義作「山姥切」
堀川作:「山姥切国広」(写し)

新刀の祖とも呼ばれるほどの名工・堀川国広が足利滞在中足利城主長尾顕長の依頼を受け、顕長所有の備前長船長義の刀を写して打ったものとあり、その出来が素晴らしく山姥切国広と呼ばれまた国広作中第一の傑作として名高い。
また、この堀川作の山姥切の出来が素晴らしく、本家にも銘を入れさせたとある。
国広作の中でも「山姥切」と号の方で呼ばれるのはこの刀くらいであり、それほど本家に劣らぬ傑作であった。

長義作の山姥切は由来こそ定かではないが、本家が打たれた当初は山姥切退治による逸話によって出た名前かもしれない。
が、堀川の新刀時代は実際人斬りが行われていた時代であり、古刀のように化物の名の号を拝すことはない。
にもかかわらず山姥切と呼ばれる(写しとは言え本家と同じ号で呼ばれている、ということ。)
→「山姥退治なんて俺の仕事じゃない」「化け物斬りの刀ならともかく、写しに霊力を期待してどうするんだ」
これは堀川作の山姥切は号を拝しているだけ、と言うことなので彼の主張は最もである。

ここで山姥切国広のキャラクターを象徴する最もなところは、「自身が写しとして打たれたことをめちゃくちゃに気にしているところ」である。
何故そこまで気にするのか。単純に来歴だけさらうと、幾人かの主を経て売り買いされたと言う経緯はわかる。
が、その来歴の中でそういう思考回路に行きつくとなると、有力そうなのは
「ああ…いやだな、消えたあとも俺は比較され続けるのか」と言う台詞から考えられる、"この山姥切国広を語る上で常に「山姥切の写しの国広」と言われ、彼自身を一つの作品として見てもらえたことがない"からかな、と思った。
まるでオマージュ作品のように、常に「※山姥切の写し」と言う注釈がついてまわる、と言うこと。
(オマージュは通常悪い意味で使われることはないが、山姥切国広を主観としてみればベースの作品紹介が抜けることはないので、比較されると表現するのもわかる)
刀を打たれて生まれた瞬間から、折れても尚記録として永遠に、山姥切と山姥切国広が人類から忘れ去られるまでずっとその注釈が呪いのようについている。だから消えたあとも比較され続ける、と言っているのかな…と。

他の刀との決定的な違いは、山姥切が本家の写しであると言うことで、それはつまり唯一無二の存在ではない、と言うことにある。
山姥切国広は一振りしかないじゃないか、と言うことではなくて、完璧なほどのコピーなら人間でいう外見の個体差が衣装はともかく本家と彼にはないはず。他の国広兄弟と違うのは、彼らがその存在として作られたのに対して、山姥切は誰かを模して打たれた。存在確証の有無じゃない、名だたる名将に扱われた故のブランドじゃない。
たとえば同じ名前の加州清光が沢山いる、量産された同田貫正国とも違う。山姥切国広には個体差がない。その写しはあまりにも出来が良すぎて、本家にさえ銘が彫られたほどである。

仮に、本家山姥切が実装されてしまったら?この身も髪も眼も、本家のものではないのかと疑ってしまう。精巧に作られたコピーだから。もし瓜二つの顔が本家として現れたら、「お前は彼の兄弟か」ではなく、「お前は彼の写しか」と言われることになる。そうなるくらいなら顔は見られない方がいい。堀川が打ったと言うストライプのジャケットだけが彼を本家と分ける唯一の手がかりになる。しかしそれも、山姥切と言う名を取ってしまえば、国広第一の傑作ではなくなってしまう。

服を汚すことで比べられず、オリジナルになれるのならどんなにいいだろう。誰かの装いではなく、汚れさえ自分だけのものになるならどんなにいいだろう。
山姥切国広を美しいと言えば、山姥切もつまり美しいのだろう、となる。自分を通して本家を見る。一生山姥切国広は、本家山姥切の美しさを宣伝して回る鏡なのだ。でも鏡が汚れて曇れば鏡に目が行く。鏡を見てもらえる。

ただ…本家山姥切も恐らく、山姥切国広と同じわだかまりをもっていそうだな、と思った。
本家に銘を彫るほどの傑作が写しとして生まれ、片や国広第一の傑作とまで言われ、本家も大概山姥切国広とセットにされただろうと思える。実装されないとは思うが、されてしまったが最後闇の深さがおそろしい。

山姥切は本家を、国広は刀工を指す。例えば国広、は和泉守が堀川国広をそう呼ぶ。山伏国広は山伏と呼ばれる。
もし、上記のような(もしくは別の解釈から)山姥切国広推しのみなさんが「まんば」と彼を愛称で呼ぶのに彼を個としてみているよ、と言う願いが込められていたとしたらなんて…泣ける話だろうと勝手に深読みした。(単純に愛称なのはわかっているものの、もし?を考えてしまう解釈深読み野郎なので)
それからの足利展示で山姥切国広が多くの審神者から愛され声を掛けられていたのを聞いて、そこには彼しかいないと言うのがたまらなく感慨深いものがあった。
ソハヤとの会話の通り、願わくは彼が一つの刀としてそこに在れるならと思う。
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